私とスペイン料理
2010年11月
私がスペインでの修行を終えて日本に帰国した1977年頃、東京にはまだスペイン料理店という店があまりなかった。1年半東京で仕事をしていた時はステーキハウスであり、本当にスペイン料理で食べていけるのだろうかとか思案していた。
日本に帰る時私の師匠ルイス・イリサールから、「外国ではどうもスペイン料理というものが、おかしく出されている。本来のスペイン料理ではなく、その国の人間がスペインに対するイメージを想像して作る観光客向けスペイン料理、お前はそのような店は作らないでくれ」と言われた。人づてに聞いて行った何軒かの店はまさにその手のものであり、料理人の作った料理でなく、日本人の考えるスペインがまさにそこにあった。
フラメンコの音楽に闘牛のポスター、薄暗くテラコッタ仕上げの白い壁に帆立貝が埋めこまれている。料理人としてスペインで3年研修した身には、料理人の作るレストランではなかった。勿論それがダメというのではないけれど、スペイン料理を食べるレストランと考えると首をかしげてしまった。
念願のレストラン・バスクを1981年に函館に開店した時、やはり迷ってしまった。スペイン料理という旗を出してこの函館という地方の街でお客さんは来るだろうか。結局スペイン料理も入れたレストランにした。
3年小さな店をやった後、今のレストラン・バスクを開業、それと共に店の方針を、スペイン料理、バスク料理、地に根ざした創作料理にしぼった。と同時に生ハム、アンチョビー、シシトラ等の物をも作り始め、スペイン・バスク地方の調理法に基づいて地元の素材を使った料理をめざした。
始めは当然の如く地元の人たちばかりであったが、少しずつ札幌や関東、関西の人達も来るようになり、食べ終わった後、「何故東京にこのようなスペイン料理の店がないの」と言われるのが共通になった。スペインにはよくあるレストラン、クロスがテーブルにかかり、ナイフ、フォークが並び、アラカルトでもコースでも好きに選べる。あたりまえのレストランである。
修業時には、調理場に生きたまま持ち込まれるウサギや鴨を殺すところから始め、血や内蔵をできるだけ大切に扱い、最終的に一皿に仕上げた。そこから得たことは、料理人としての私の料理に対する基本中の基本になっている。現在では、マタンサも含め、法律上だんだん難しくなってきているといわれているが。
当時日本人が一人しか住んでなかったサンセバスチャンもバスク語でドノスティンという名前に変わり、30人くらいの日本人がすんでいる。私は、1年に1ヶ月バカンスをとり、浦島太郎にならないようにスペインに戻っていた。調理場をのぞき友人の料理人やルイスと情報を交換する。
スペインのこの35年間の変化はすさまじく、政治や経済だけでなく料理はさらに大きく変化したと思う。私の修行したサンセバスチャンは、1981年に新バスク料理を宣言し、その変化は毎回行くたびに私を驚かした。星付きの高級レストランも驚くほど増え、旧市街地から始まったピンチョスという言葉は、世界中に広まった。1999年から始まったLMG(最高美食会議)も料理に携わる多くの人や社会を巻き込んで世界中に広まっている。
そして今、フェラン・アドリアから始まったスペイン料理に対する注目は、バルという立ち飲み食べるスタイルを伴い、世界中に広まり日本にも定着してきた。
トラディショナルな料理、現代風スペイン料理、バルの小皿料理。店の数も多くなり、フレンチ、イタリアン、そしてスペインといっても良いのではないだろうか。昔のことを考えると問題もあるけれどよくなってきたなーと思う。
私に関して言えば2004年に行った『スペイン料理フォーラム in HAKODATE』の中の1つのイベント、バル街はこの後毎年2回ずつ開催し、2011年9月9日の開催で15回目を迎える。また柏、伊丹、富士、福岡など国内の様々な都市でも同様のイベントが催されるようになり、今後もさらに拡がりを見せそうだ。
スペインの食べる文化の楽しさは、日本人にとっても受け入れられている。2009年と2010年には「料理人による、料理人のための料理学会」という趣旨のもと、料理の背景にある料理人の哲学を発表する『世界料理学会IN函館』を催し、多くの方から賞賛を得、うれしく思っている。これらのイベントは、スペインの食文化を私なりに解釈し開催したが、この国の持っている食文化はまだまだあり奥深さをしみじみ感じる。
文・写真提供 深谷宏冶




















